2010/11/14

海角七号

台湾で2008年の夏休み映画として空前の大ヒットした映画「海角七号」は、メイキャップアーティストのトニー田中の娘が主人公として活躍したり、歌手の中孝介が出演した映画としても日本でも話題になっていた。ネットでもダウンロードは出来たとは思うのだが、実はなんだかんだいってこれがダウンロードできない状態だったために、どういう内容の映画なのだろうというのは気になっていた。ウェブでは大体の内容は知っていたのだが、大ヒットになるということは、どういう点がヒットに結んだ内容なのかというのは知りたかった。

台湾に行ったときにDVDでもあれば買えば良いかなと思ったのだが、結局手に入らない状態だったのだが、本屋でたまたま見つけたのが書物版の「海角七号」である。

内容をあまりしないでネットでいろいろ書かれている内容だけを勝手に鵜呑みにしていた最初の印象は、へっぽこバンドが台湾の南にある屏東の村でサクセスするストーリーと、敗戦により台湾から撤退する日本人との間にできたラブストーリーを無理やり絡ませた映画だとしか思っていなかった。

ところが、実際には登場する人物全員が映画の中ではとても重要な役割を持っていて、話の裏側には、人間関係というのは偶然の重なりによって成り立っているということだろう。それと、人間にはいろいろな過去を背負っており、その過去と上手につきあっていけるか、それとも過去は忘れて前向きに進んでいくだけかということを考えさせられる映画だったと思う。

もちろん、映画の背景には、日本の敗戦により日本へ強制帰国しなければならなかった日本人教師と台湾人学生という古い時代の出来事を、手紙という形で離れ離れになってしまった間を詰めていきたかった残りが現代にも「偶然」娘が発見して、そのなかで出てきた相手というのは一体どういう人なのかということから話は始まる。せっかくの手紙は本来送り届けるべき相手に送る必要があると考えた娘が、いまは存在しない台湾の土地の住所に送っちゃうことで、現代に時代は戻り、台湾でどたばたが始まるというもの。このドタバタ自体が、また個性あふれる人たちで構成されていて、よくもまぁ、こんな小さな場所にこれだけバラエティな人が「偶然」にも集まってくるものなのだろうか?というような内容である。話の中心は、台北で一旗上げられず、夢破れて故郷に戻ってきた歌手と、これまた日本から留学のついでにモデルになった、中途半端な顔の日本人が、モデルではなく結局台湾人モデル達が現場で活躍できるために、半分マネージャー的な役割になってしまって、もう日本に帰りたくなっている日本人女性が展開する話だ。

今回は小説版を読んだだけなので、実際に小説に書いているような内容をどのように映像化したのかというのは、まだ映画を観ていないのでなんともいえないのだが、文章だけを読んだだけでは、一気に読みふけてしまったし、台湾の中の残された日本と、台湾が本来から持っている温かみというのも小説に登場する人物のキャラクターを通して、それはよく感じ取ることができたし、特に台北のような都会で繰り広げられる人間関係ではなく、南部のそれもド田舎といってもいいような場所での心温まる人間関係がなんとも楽しそうに脳裏に映った。

本を読んだだけなのに、なぜかやりとりがされている、行ったことも無い場所の景色が見えてきて、映像の中で演技している人たちの顔を見たことがないのに、どういう感じの人が演技しているのかというのを久しぶりに脳みそを使って妄想ゆんゆんに働かせた気がした。そして、この小説を読んで、輝く太陽と綺麗な海がある墾丁の国定公園に行ってみたくなった。

海角七号 ~君想う、国境の南~
原作:魏徳聖
小説:藍弋豊
訳:岡本悠馬, 木内貴子
出版社: 徳間書店
出版日:2009/12/17
単行本 : 256ページ

感染症は世界史を動かす


冬になると毎年「今年のインフルエンザは、このタイプが流行る見込み」というのが恒例行事となっている。特に、昨年の新型インフルエンザ騒動の時には、日本全国がパンデミック対策として、政府から会社の組織まで猫も杓子もパンデミック、パンデミックとあほのように唱えていたことは記憶に新しい。しかし、こういう感染症については、定期的に日本全国を巻き込んでぎゃーぎゃー騒ぐことは、昔から行われていたことだろう。鳥インフルエンザのときもそうだったし、空気感染ではないが、エイズだってある意味感染症である。それからもっと昔はライ病もそのうちのひとつだし、結核だって感染症として恐れられていた。今では感染症に感染したときには、隔離はされたとしても、差別的なことは受けることは無い。

感染症の観点を世界的な視点から眺めたときに、日本ではほとんど広まらなかったが、その感染症によって歴史ががらっとかわってしまったものの代表としてペストがある。日本は大昔から水洗設備と下水道設備を完備していたので、ペストは全くといっていいほど流行しなかったが、ヨーロッパは、むかしから窓から外の道路に糞尿を捨てていただけの世界なので、一般人は歩くと、靴はウンコまみれだったのは当然で、貴族達は馬車に乗っていたからウンコまみれにならなかったという背景はある。そういう環境では、当然ペストが大発生する。ペストの原因が分からなかったからなのだろう。

本書はそういう世界的な視点での感染症の出来事と、歴史にどのように影響を及ぼしたのかということを、各感染症ごとに説明されているので、とても分かりやすい。ここで出てくる感染症は、「ペスト」「梅毒」「結核」「インフルエンザ」であり、それぞれで章立てになっていて、それが原因でどんなことになったかというのを詳しく説明されている。
インフルエンザの章になると、現在でも起こっている感染症のことなので、なんとなく理解しやすいため、あまりじっくり読む必要はない。でも、インフルエンザには、香港型とかソ連型というようなものだけではなく、実はたくさんの種類があって、最近話題に取りインフルエンザや新型インフルエンザというのは、どういう型が変異して出来たものなのかという医学的・病理学的・生物的な観点から述べているので、実は科学的なことが大好きな人は後半だけ読めばいいと思う。そうではなく、一般的なヨーロッパの歴史と感染症との関係について興味や事実関係について知りたいというのであれば、最初から読むべき書物だと思う。

ペストについては、先述したとおりに、処理しなかった糞尿が原因になっているのだが、そういえば、ローマ時代はちゃんと上下水道の整備をしていたのに、ゲルマン人の大移動と共にゲルマンの野蛮で粗野な文化が定着してしまって、それまでの高度な技術が全く発達や程度を維持されなかったことが、ヨーロッパの不幸の始まりだった。でも、ペストはどこからやってきたのかというのも説明されていて、あんなのてっきりヨーロッパで勝手に発生したものかとおもっていたら、実はそうではなく、タシケントが発症の地である、数年のうちにヨーロッパ全土にその猛威が振るってしまったというから歴史は面白い。さらにいうと、それまで教会に行けば信仰で治るとおもっていた病気なのに、ペストの前では聖職者は無力であり、かつ病人を無視して逃げ出すのが当然だったため、枢機卿や司教が逃げ去った教会の前で取り残された人たちがたくさんいて、「教会は何をしてくれたんだ?」と文句が上がったのは言うまでも無い。そこから、後世の宗教改革が始まる布石になったのも歴史としておもしろい。

梅毒については、これも実は身近ではないのでよくわからない。コロンブスがアメリカに行ったときに梅毒を一緒に持って帰ってきたのが最初である。長い間の船旅で禁欲生活を強いられていた船乗りにとっては、現地の女とセックスをして感染したまま、ヨーロッパに戻ることから生まれた。時はルネサンス時代。公娼や私娼はあたりまえのようにヨーロッパ全体に存在し、フリーセックスは当たり前の時代である。そんな時代では、ヨーロッパに病原菌の菌床を持って帰ってきたのであれば、あっというまに広まるのは当たり前のこと。そのあと、ヴァスコ・ダ・ガマの東方遠征と共に梅毒もやってきて、中国もあっというまに梅毒の間に落ちいり、その影響で日本にもこの時期に梅毒がやって来る。結局は全部セックスが原因の病気である。いまのエイズと全く同じだ。

ただ、書籍に記載されていたのだが、梅毒に効果的だとして処方されていたのが水銀だったというのには驚いた。大昔から処方されていた湿疹に水銀軟膏が使われていたことを延長したことにより、全身に水銀を擦り込ませ、何枚もの毛布で包み、暖炉の前で高温の発刊室に入れられ、この燻蒸式の水銀療法で発汗させ、患者の体内から毒をだそうとするものだる。いまの水銀に対する常識から考えると、これって死へのロードへまっすぐGOとしているのと同じである。なので、こんな療法をまともに死んで治療をしていた文化人が数多く作品をそのなかで辛さを訴えながら残していたことは面白い。

またフリーセックス反対の立場からピューリタンという集団が生まれ、そのひとたちがアメリカに渡って新たな国を作るというのもなかなか面白い。病原菌の本来の戸籍に、病原菌を持っておらず、無知な人が、自ら乗り込んでいくのだから。

このようにいろいろな視点から病原菌と歴史の事実を組み合わせて説明している文章は一気に読める代物だし、後世にまで参考書として残したい書物の1つだ。

感染症は世界史を動かす
著者:岡田 晴恵
出版社: 筑摩書房
出版日:2006年2月10日
新書版:286ページ